昭和56年3月10日 朝の御理解
御理解第45節                       「世に三宝様踏むな三宝様踏むと眼が瞑れると云うが三宝様は実る程かがむ人間は身代が出来たら先生と云われるやうになると頭を下げる事を忘れる信心心して身に徳がつく程屈んで通れ兎角ある釘は打たれるよく頭を打つと云ふが天で頭を打つのが一番恐ろしい天はたかいから頭を打つ事はあるまいと思はうけれど大声で叱ったり手を振り上げたりする事はないが油断をすな慢心が出るとおかげをとり外すぞ」


 油断をしとらんように思うておっても、つい油断が出来る。神様がいちいち大声をもって叱って下さったり、手を振り上げたりなさるというような事はないから、ついついうかつになっていくですね。信心させて頂く者はいろんな面で、心がけを自分の信心の行き方の上に作っておかなきゃいけない。
 そしてその生き方を日々心がけにさせてもらって、それを精進していかなければならない。いわゆるこれ位の事が、大怪我の元になる。私はある教会の奥さんが、お参りをされた時に、どういう事に精進させて頂いたら、おかげが受けられるようになるだろうかという、そのいう意味の御質問に対して、ああたがね、日々生活の中に、もうこれ位もうよかよかと思う事やら、面倒くさいなぁとこの位とおもった事、又は面倒くさいなぁと思う事を、いよいよ大切にしておいでられるといいですよというて申しました事ですけれども、この心掛けがいるようですね。
 皆さん今日は一日ここの最後の、いつもここの所では、三宝様踏むな三宝様踏むと、という所にいつも芯を置いて、御理解頂くですね。今日は、私はこの最後ん所に、天は高いから天で頭を打つような事はあるまいと思う。大声を上げたり、手を振り上げたり、するような事はないから、つい油断が出来る。その油断が出来ない油断をしないという、いうならまぁ「勝って兜の緒を締めよ」といったような事がありますが、そのそれをどういうふうなかたちであらわしてたかというと「ああせからしかなぁ」とか面倒くさいなあと思うた事を、とりわけ大切にしていく。いわゆる、実意丁寧信心を面倒くさいなぁと思う事の中に表わしていくというような生き方をさせて頂くと案外油断をせんですむという信心が身についてくるのじぁなかろうかと思います。                                              どうぞ